美術館のススメ

暇な時間を潰すにはお金がかかる。

例えば、アルバイトの出勤時間まで3時間ほど猶予があるとする。
あなたはその5時間をどう過ごすだろうか。

確かに家でごろごろするのはタダだが、退屈だ。
長い時間をネットサーフィンに費やすのも後悔のほうが大きい。

茶店でゆっくりするにしても5時間は長すぎる。
買い物をするのもいいが、買ったものをバイト先に持ち込むにしても、家に一旦帰るにしても手間が大きい。

ここでぼくは美術館に寄るという選択肢を出してみたい。

数百円で暇な時間が丸々潰すことができるお得な趣味だ。

よく、「美術わからないから」と美術館を敬遠する人もいるが、極論、美術鑑賞に必要な知識などない。知識が必要だと思ってしまうのは「この作品はこういうものだ」と「正しい解釈」だけを教える美術教育に問題がある。

美術鑑賞に必要なのは「感じる」と「考える」の2つだけだ。
高尚な精神性など全くいらない。

以下から具体例を挙げてやってみよう。

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苦情は何処へ行く?

今から6年ほど前にあった、カップ焼きそば「ペヤング」のゴキブリ混入事件を覚えてますか。当時大学生だった男性がペヤングの麺にゴキブリが入っていることをTwitterに投稿したことに端を発する事件は現在でも考えさせられる点の多い事件でした。

事件の概要は、
・大学生、ペヤングにゴキブリが混入していたことをTwitterに投稿、拡散
→翌日、保健所・製造会社に連絡
→大学生、製造会社の対応に不満を漏らす
→ゴキブリ混入がネットニュースで報じられる
→保健所、ペヤング自主回収を指導
→大学生・製造会社との間で和解が成立
→しかし、ペヤング愛好家たちは大学生の投稿が発端でペヤングが食べられなくなったこと、製造会社に多大な損害を与えたことを理由に大学生を批判
→大学生、ツイートによって騒ぎを大きくしたことを反省
という流れです。

この騒動の最もまずかったところは「然るべき機関に相談する前にネットに投稿した」ところでしょう。確かに、他にも異物の入った焼きそばが出回っているかも知れず、同様の被害を防止したかったという気持ちもあったのでしょうが、結果的に根本の問題が解決される前にパニックを起こしてしまいました。

インターネットの常なのですが、事実より憶測・噂のほうが拡散するスピードが速いのです。大学生は夜の10時にツイートし、翌日の朝8時に保健所に連絡しました。この間10時間にツイートが拡散し、多くの憶測が生まれたことは想像に難くありません。保健所が調査するのにも時間がかかることも考えれば、事実と解決策が判明するまでもっと長い時間このゴキブリ混入事件は憶測にさらされることになります。その中には事実とは異なる情報、感情的な情報も含まれており、それらが膨張することで「炎上」するに至るのです。

事実を調べるには膨大な手間がかかります。この事件の場合、保健所は本当にゴキブリが混入していたのか、混入が事実だったすればどこで混入したのか、他に同様の混入が報告されていないかということを間違いのないように調べる必要があります。ですので、憶測と事実のタイムラグをなくすには前者を遅らせるしかありません。それを具体的に言うと、「安易にネットに投稿するのを踏み留める」ということなのです。

このペヤング事件から6年が経ちます。この間にスマートフォン、インターネットは急速に拡大して誰でも好きなように発言ができる空間が整備されてきました。その一方で保健所・警察・その他行政機関、企業のお問い合わせ窓口へのアクセスの利便性はあまり改善されているように思いません。ネットユーザー側も直接連絡するよりSNSに上げたほうが早いと思っているように見えます。

ただ、行政機関はもとより、企業もSNSを常に見ているところは稀有でしょう。ネットに書いたって何も改善されんのです。見てないのですから。

そのかわり、メールなり電話なり、直接言えばある程度は対応してくれますよ。あっちもプロですから。

もう少しネットで愚痴る前に直接問い合わせる習慣が定着すれば、インターネットはもっとより良くなるんじゃないかなあと思うんです。

ぼくの同人誌は朗読してもいい

最近、同人誌の朗読というものが話題らしいので、個人が楽しむ範囲内でやる分には許可を出しておきますね。人によっては嫌だという人もいて、奥付に「朗読を禁止します」なんて書いてあるみたいです。ただ、ぼくの本は文字しか情報がないので目が見えない人には内容を伝えることができません。そんな人のために朗読して伝えられる人がいるとぼくとしても助かりますし、障害のある方にとって同人誌がより身近になっていいと思うんですよね。点字の同人誌とか同人誌朗読CDとか面白そうだと思いません?

上に書いたことは本気で思ってたりすることなんですけど、この記事を見に来た人はこういう話を見に来たわけじゃないと思います。おまけ程度に「例の件」についてコメントしておきますね。

「例の件」とは、あるヴァーチャル配信者が配信で作家の許可無く同人誌をイタズラ目的で利用し、内容を朗読し、笑いものにしたという話です。

確かに褒められる行為ではなく、利用された本の作家さんは激怒、同業の同人作家たちも激怒させています。

ただ、その炎上の波及の仕方があまりにもまずくて、なんか話が誇張されて伝わってるようなんですよね。

・「配信(スパチャあり)の一場面で問題の行為があった」
→「同人誌を馬鹿にしてスパチャで稼いだ」
・「本の表紙と台詞を少し読み上げた」
→「本の全て(殆ど)を読み上げた」

まあ、問題の行為は作家にとっては過去のトラウマを抉る不快なものでありますし、問題の行為をした配信者の事務所は度々不祥事や炎上事件を起こすことで知れていますが、あまり感情的になりすぎると反論も感情的になってしまいますし、不正確な情報拡散は世間の目も冷ややかになってしまいます。よくない行いには変わりないんですけど、正確に事態が伝わっていないのがモヤモヤするなーと思います。

最近、伝言ゲーム式に話が誇張されて炎上するというパターンをよく見かけます。例えば、最近あった話だと、

・「『バケツ塗りは手抜きだ』と言われた!」
→「バケツ塗りは手抜きなんかじゃない!」

みたいな話です。元の発言自体伝聞調で「マックの女子高生」並みに信憑性が低いのですが、絵描きにとっては身近な話だったからでしょうか、どんどん拡散し、お気持ちを表明。お気持ちしか見てない人が話を中途半端に理解してまた拡散……。というように広まっちゃったようです。

正義感にあふれるのは構わないんですが、それで雑に他人を叩くのはいかがなものかと。最低限のソースをチェックしてから発言したほうが良さそうですよ。

最後に、ぼくの本を点字化・朗読CD化してくださる方がいらっしゃったらひーだまでご一報ください。

 

K先生の言葉

ぼくにとって、高校までの教員というものにあまり尊敬を抱けないでいる。ぼくの育った田舎の学校は無意味な規則を生徒に守らせることが教育だと思っている者が多かったからだ。平成の時代でも体罰をする教員は依然として残っているようなところだ。たぶん、当時の学校生活が楽しかったと思う人がいるのは思い出補正かなんかだと思ってる。

K先生は中学校の社会科担当教諭であった。何を考えているのかわからず、授業はめんどくさそうにやるし、思想的には右寄りな方でそういう発言も多かった。当時、我が校にはもうひとり社会科教諭がいたのだが、彼は下ネタ好きで男子生徒からの人気は高かった。それに比べるとK先生の人気はかなり低かったのではないだろうか。

正直、K先生の思い出は殆ど残っていない。給食中に変な本を読んでたことと、居眠りした生徒の机に自分の机をすごい勢いでぶつけたことぐらいしか無い。しかし、彼が卒業前に言ったこの言葉が強烈に印象に残っているのである。

「人間関係は金になるけど、絶対に金にするなよ」

彼によれば、友人から金を借りるという行為は人間関係を換金する行為なのだという。そして、換金時に人間関係とともに信用を消費するという。

その言葉の含蓄の深さを感じたのは大学生になって一人暮らしを始めたときであった。街を歩けば「電車代ないから3000円貸して」と寸借詐欺するおっさんに出会うし、家にいれば「三ヶ月でいいから契約して」とフランクに持ちかける新聞勧誘に出くわすようになった。そういう経験を積んで自分の持っているお金がどういう価値を持っているのか、少しずつ分かってくる。

自分から金をせびろうとする人たちを見て、「汗水たらして稼いだ金を何だと思ってる」と思うと同時に、「他の人間もお金に対して同じように思ってるんだろうな」とも思う。

ぼくが友人に「5万貸して」って頼んだら貸してくれるだろうか。もし貸してくれても二回目、三回目になると「自分の金を何だと思ってる」と思われるだろう。それがお金の代償に信用と人間関係を消費するということなのだ。

命とお金の次に大事なものが信用だ。K先生はそんなことも言ってたと思う。中学卒業してすぐ就職という人も多かったド田舎の学校の教員としては的確なアドバイスだったのかな。卒業シーズンには遅すぎるけど、新生活に向けてのお話でした。

父親の話

ぼくは父親似か母親似かと聞かれると父親に似ている。特徴のない顔立ち、正義感が強く真面目な性格、視力の悪さは父親そっくりだ。母親は禿げた父を指して「あなたもいずれこうなるよ」とも言われてきた。

そんな父親は地理に詳しく、遠方に出かける際、車の運転をするのはいつも父であった。ぼくが小学校高学年〜中学生の頃、水泳が得意だったぼくは遠方の大会に出場するため、父の運転で現地まで向かうということがしばしばあった。
大会が開催されるのは土曜日や日曜日。月曜の学校に間に合わせるためには無理してでも夜中の高速道を走る必要があった。夜な夜な運転する父は眠眠打破やブラックガムを常用していた。ぼくと会話をしていればタダで居眠り対策ができたと思うのだが、ぼくの睡眠時間確保のためか父はそれをしなかった。あの頃の父親は無口だった。

あの頃の父親は観光業に勤めていた。それ以前に勤めていた輸送業の会社で母親と出会ったという。父の勤勉な性格は仕事仲間からの評判は高く、プライベートでの交流もあった。しかし、あるときから父は職を転々とするようになった。観光業から保険業保険業から警備業、警備業から建築業と1-2年足らずのサイクルで転職を繰り返した。ついには、転職先でリストラされ無職となってしまったのだ。

父が転職を繰り返す間、ぼくにも変化があった。一時は育成選手指定から代表入りまで視野に入っていた水泳の道を諦め、勉学1本に集中しようと決意したが、高校の指導についていけず不登校に。結局、公立の高校を自主退学して通信制を卒業。卒業後、大学受験のため予備校に通って浪人生活を送ることになった。

自宅から予備校はかなり遠く、いつも母親の送迎で登校していた。たまに母親が体調不良だったり早めに出勤するときは無職の父が運転する。
あの頃と違って無職の父は饒舌だった。父はいつも学生時代の話や仕事の理不尽なできごとを話していた。

ー不良たちにからかわれたけど真顔で反論して論破してやった
ー社長の息子がやらかしたのに自分に濡れ衣を着せられた
そんな話ばかりである。

父は勤勉で、真面目で、正義感が強くても、高卒であった。たまたま時代がバブルだったから就職できる場所があったものの、長期不況に入ると大卒でも就職難の時代になる。そんな時代に高齢で、高卒の、離職歴が多い父親がよい仕事に就けるはずがなかった。現に父が勤める企業は業界の有名企業から地元の中小企業へと転職を繰り返す度にランクダウンしていく。最終的に40代後半で無職となった父を見て母親は「もう就職できても退職金は望めない」と諦めていた。

正義感だけでは食っていけないのだ。

しかし、父はそんな現実を直視しないかのように息子に過去を語る。そんな父が少し哀れだな、と感じてしまった。

それと同時にそんな父に似ているぼくもこうなってしまうのかなと思ってしまう。
幼少期から正義感ばかりは強かったぼくは喧嘩の強い相手にも、女の子にだって間違ってると思ったら喧嘩をふっかけていた。ただ、高校に入ると自分の信念は否応なく無視され、教員たちの権力によって握りつぶされ、鬱になってしまった。大学に入った今だからこそ、自由にやれていて元気であるが、今後この自由が続くとは限らない。もし、また困難に直面したときに闘える武器はあるのだろうか。正義感だけの裸一貫で突っ込んだりしないだろうか。

幸い、僕には伯父(父の兄)に似て学がある。父が行けなかった大学にも行けた。大学での学びは少なからず役に立つだろう。

ぼくの大学入学後、父は地元の建築業の会社に就職した。仕事の愚痴は相変わらず聞かされるが、職は安定している印象を受ける。

何が父親を変えてしまったのだろう。この疑問はおそらくずっと解明されないままだろう。というよりむしろ、何者のせいにもしたくない。原因がわかったところで父もぼくも誰も幸せにならない。あるのは原因に対する憤りだけ。だったらわからなくてもいい。そんな気分だ。

夢を応援する人、夢を売る人

 昔、初対面のおじさんに夢を話したことがある。ホテルのバイキングで相席だったそのおじさんはぼくの話を聞いてえらく感心した様子であった。どうも、おじさんはぼくの将来の夢を実現できるような業界の大物と知り合いらしい。話はトントン拍子で進んでいき(慣れない酒に酔っていたため)、おじさんはその大物を紹介してやると言い出した。学業も修了していない身で準備も何もしていない。お誘いを丁重にお断りすると、おじさんは「覚悟が足りない、半端者め」などと酔いに任せて冗談っぽく吐き捨ててその場を去っていった。

 そのできごとのあと、ぼくは将来の夢に対して急速に関心を失った。罵られたことに対して相当凹んでいたからだったのもあると思う。ただ、今思えば、あそこで誘いを断ったのは正しい判断だったと思う。
 おじさんは夢を実現させるかどうかという判断をその日のうちにさせようとした。理性的な思考を挟む余地を与えず判断を急かせるのは詐欺師の手口にも用いられる(おじさんは詐欺師ではないと思うが)。おじさんは立ち止まって考える人間を罵った。人生の重要な決断を考えなしに下すのは勇気ではなく蛮勇である。正直、自分にとって彼は夢を応援してくれる人というより、夢を売る人だったのだと思う。

 今の時代、お金と努力する意思さえあればなんだってできる。身体を好みに改造することも、ある大会で一番になることも、月に旅行に行くこともできる。しかし、逆に言えば、コストを払わないと夢が叶わない時代でもある。そして、世の中にはそこにつけこんで夢の実現のためと称して教材なり、サービスなりを買わせようとする商人が少なからず存在するのだ。

 自分の夢を他人に口外する場合、その相手が自分のことをどう思っているのか見極める必要がある。その相手が、本当に自分のことを応援しているのか、客のうちの一人なのかという違いは自分の人生において重大な影響をもたらす。仮に、相手が後者のタイプであるならば、立ち止まって考えるべきだ。立ち止まることを恥とみなしたり、罵ったりする相手ならば切り捨てるのがのが吉である。それでも立ち止まって考えた結果、必要なものであれば買えばいい。

 ところで、夢を売る人がいるということは、夢が商品として売れるということでもある。最後に、「夢の商品化」について述べて終わりにしよう。
 商品化された夢の例に結婚が挙げられる。昔は親が決めた相手と結婚したり、お見合いから結婚したりする方が主流であった。しかし、時代が下るにつれてそのような方法による結婚はほぼ絶滅したと言ってもよい。
 それらに取って代わられたのが、自由恋愛を経て結婚をするという方法である。自由恋愛とは競争である。他者との競争に勝って結婚に至るには多大なるコストを払わないといけないのだ。自分をよく見せる衣装や化粧を購入する費用だけでなく、相手を振り向かせるための交際費、安定した収入を得るための努力という犠牲が必要なのだ。
 同様の事象は受験、仕事、趣味の分野にも見られる。良くも悪くも何らかのコストを払ってある程度の地位にいないと他者からの承認を得にくいというのがジレンマとして存在することは心に留めておくべきであるように思う。

文系学部生のための良い先生との出会い方

 例の感染症も一部の国でワクチン接種が開始されるなど収束の兆しを見せ、大学での対面授業も再開の兆しが見えてきているように思います。そこで今回はぼくの大学での経験から、大学1・2年生向けに恩師となるようなよい先生と出会える方法を伝授したいと思います。

 大学の教員の仕事は大きく分けて2つあります。それが「研究」と「教育」です。ただ、残念なことにどちらかが疎かになっている教員も少なからず存在します。特に後者の「教育」が疎かになってしまうと我々学生は高い学費を払って無駄な時間を過ごすことになります。
 ぼくが出会ったそんな残念な教員を挙げると、

・事前の予告なく期限が短いレポート課題を出す教員
シラバスに載ってない、生協にも発注していない本を課題図書にする教員
・グラフの出典欄に自分のパソコンのハードディスクを参照する教員
・話を何度も脱線し、現実の社会問題について愚痴を垂れる教員
・自分の考えとは異なるコメントを無視し、同じような考えのコメントしかフィードバックしない教員
・「テストの成績が悪い」と学内掲示板ではなく、わざわざツイッターで発言する教員

 皆さんにはこのような教員の授業を受けてしまって不快な思いをしないよう、気をつけるべき点がいくつかありますので、紹介したいと思います。

①学生同士のネットワーク網を持っておく

 大学生の基本です。友人・先輩などから「この先生の授業がいい・悪い」という情報を仕入れておくとかなり参考になります。ぼくは自分がいる大学のことしか体験してませんので、身の回りの同級生・先輩の情報は何より正確なはずです。同じ授業を受ける者同士でもいいので友人は作っておいたほうが損はないです。

②楽単は取ってはいけない

 その学生同士の情報から「〇〇って授業は楽に単位取れるよ」という情報があるかもしれませんが、1・2年生の間は取らないほうがいいと思います。
 というのも、楽単の授業にはあまり真面目に勉強しない、授業をまともに受ける気がない学生が殺到するため、授業風景はたいへん見苦しいものになります。また、初めのうちから楽な単位を取って勉強する癖がついていないと、卒業間際に取れそうな単位がないと焦ります。楽単はちゃんと勉強したけど単位が足りないときのための保険として取っておくのが吉です。
 逆に、評価が厳しい先生こそ、それについてこようとする学生には優しく手を差し伸べてくれるものです。楽に単位を取ろうなどと最初から考えないことです。

③バラエティ・ワイドショーに出る教員は避ける

 うちの大学にはあまりいないのですが、娯楽色の強い番組に出れる教員は普段から暇=研究を真面目にやっていない可能性が高いです。また、テレビに出演するために授業を欠席して、学生にはレポート作成や試験をさせるだけということもやります。学生にとってはあまり勉強になりません。
 逆に、報道番組や新聞にコメントだけする教員は信用性が高いです。マスコミから一定の信頼を得ていて、かつ大学での仕事に専念できているということですから。

④学外の政治活動に参加している教員は避ける

 このタイプの教員は社会学の教員に多く、授業中、しょっちゅう脱線して政治の愚痴を延々と聞かせてくるのが特徴です。どうも同じような考えを持つ人達としか接していないのか、度々SNSでズレた発言をして炎上する場面を見かけます。自分の思ってる結論が正しいと思っており、それに反する事実や意見にはかなり冷たい教員には要注意です。少なくとも、学生と意見が異なっていても寛容な態度で接する教員を選んでください。
 「科学的」で「学問」と呼べるものは実験や観察から考察して結論を導くものですが、結論のために考察していては元も子もありません。この点は経済学などの分野から社会学に対して批判されているところでもあります。自分の柔軟な思考のためにも、なるべく多角的な意見を紹介できる教員のもとで学びましょう。
 逆に、政府や政治家などに実務として提言を行う仕事をやっている教員はかなり信用度が高いです。プロ中のプロですからついていって損はないと思います。
 授業を受ける前に教員の名前で検索し、学外でどのような活動を行っているのか調べておくのが吉でしょう。

 個人的な体感で言うと、この傾向が強い教員ほど授業のアナウンスが雑だったり、課題の出し方もかなり適当だった印象があります(最初に挙げた教員の例の殆どが政治運動に参加していたり、そのような教員と密接な関係にあったりしていた)。

 以上、4点がぼくからのアドバイスになります。最後にぼくが大学生活で印象に残った先生の発言を2つ紹介して終わりにします。

「『やってみなくちゃわからない』は言ってはいけない
 厚生労働省で新薬の認可を行う部署から来た外部講師の方のお言葉です。
 新薬開発は億単位という莫大な資金と10年以上の長い時間をかけて行われます。そのため、開発に携わる製薬会社や医師から「早く治験を行う許可を下ろせ」「やってみなくちゃわからないだろう」と圧力がかかるそうです。しかし、厚労省は国民の命がかかってる故にそんな安直な提案を突っぱねています。
 新薬認可の業務に対する尊敬とともに、一見、勇気の一言に見える「やってみなくちゃわからない」が実はとんでもなく恐ろしい決断を迫る言葉だということを気付かされました。

「専門家の意見なんて当てにならないですよ。誰もトランプ当選やブレグジット(英国EU離脱)を予想してなかったんだから」
 最も尊敬する先生の言葉です。先生は政治学が専門で、本を書かれたり、報道番組や新聞にコメントを送ったりと活動している立場でありながら、このような発言ができるあたり、謙虚だと感じさせます。
 実際、2016年のアメリカ大統領選挙では誰しもが「トランプ当選はありえない」と予想したものの(木村太郎はトランプの勝利を予想していた)、トランプが当選。2020年の大統領選挙でもあらゆる世論調査がバイデンの圧勝を予想していましたが、結果は何日間も勝者が決まらない拮抗状態からのバイデンの辛勝でした。
 最近の専門家たちの予想を裏切る社会の動きは、社会というものがいかに複雑で予想困難なものか、専門家という権威がいかに空虚なものかということを示唆しています。その言葉を専門家である先生の口から聞けたことは実にいい経験だったと思います。

それでは、皆さんによき出会いがありますように……。