猫が嫌いだという話

ここ数年で猫好きの数は増加しており、2017年には犬の飼育頭数を猫が上回った(2018,日本ペットフード協会)。SNSには猫の写真で溢れかえり、それを見て癒やされるという人も多いだろう。

しかし、私は猫について何も思わない。何も感じない。
元々生き物には興味がない。
興味がないのならそれで終わる話なのだが、一部の猫好きによって猫に特定の思想が植え付けられる動きも見られており、ぼくはそれを憂いている。
ぼくは猫に罪は無いと思っている。猫に誹謗中傷を浴びせて悦に浸りたい訳でもない。猫という生き物が特定の思想のアイコンになるのが嫌だという話をここでしたい。

猫のイメージ
犬は日本最古のペットだと言われている。縄文時代から人間と暮らしていたとされる。日本神話にも出てくる動物である。
飼い主に忠実で狩りや警備に役に立つイメージがある。

一方の猫は奈良時代にペットとして現れる。
ネズミ狩りに役立つと中国の書物で紹介され、貴族の間で流行した。
現代では自由な性格が気に入られている。

ここに犬猫のイメージの違いが出てくる。
犬は主人に忠実な家臣、猫は自由気ままな放浪者というイメージが後に述べる思想のアイコンとなる背景となったと感じる。

反権力としての猫
近年SNSを中心に動物が反権力のアイコンとされている。
日本共産党と交流のある「肉球新党」、立憲民主党の党大会にも参加した(NHKの記事)非公式ファンクラブ「立憲もふもふ党」などがその代表例だ。

先述した自由で寛容なイメージと多くの人気からこうしたポピュリズム的な動きが出てきたとぼくは考えるのだが、どうも腑に落ちない。
こうしたポピュリズム的政治コミュニティというのは残念ながら話題になった事象を思想でもって斬るというものであり、そこで得られた結論が必ずしも国の統治原理、憲法秩序に適うものであるとは言えない。

こうしたコミュニティのあり方というものは数年前まで人種差別を止めさせるならば暴力行為をも厭わない「しばき隊」、捕鯨を止めさせるならば危険な活動を止めない「シー・シェパード」といったごく一部の人間のものであった。
しかし、最近では、リベラリズム観点から表現の自由を著しく制限しようとするフェミニストの存在、気に入らない論調の新聞に「くず」「出入り禁止」などと書いて掲示した国会議員の存在などが一般にも散見されてきた。

このような行為の擁護に猫が用いられるのは大変残念なことである。

アイコンの弊害
繰り返し訴えるが、猫に罪は無い。
しかしながら、特定思想の顔に担ぎ出されたことで「猫好き=反権力」だという偏見を広めかねない。

実際、ぼくが猫を愛でるアカウントを見ると彼らの正義に適わない者に対して激しく非難を浴びせる毛皮に隠れた「本性」を想起してしまう。
だからどうしても猫を好きになれないのだ。