若者の政治的無関心の理由を考えてみた

よく「若年層の投票率が低いのは問題だ」と世間で騒がれる。そして私たち若者は親に、新聞に、テレビに、ネットに「選挙に行け」と言われる。
なぜかと問えば「年寄りだけに有利な政策ばかりなされるからだ」という。

誰もが経験したことのあることだろう。
でもそれで若者の投票率が上がったためしがない。なぜだろう。
これを大人に問うとあんまりいい答えが返ってこない。
この答えがわかってないのに「政治に関心を持て」と言われても困る。
これについて少し考えてみよう。

「野球と宗教と政治の話はしてはいけない」
ある程度歳をとり、お酒が飲めるくらいになると聞く言葉である。
この三つを迂闊にしゃべると険悪な空気になるから酒の席では好ましくないらしい。
ぼくはこれに異を唱えるつもりは無い。この言葉もそうだが、「触らぬ神に祟りなし」といったことわざからもわかるように無用の対立を避けるのは日本人の国民性らしい。

なぜこの三つは場の空気を悪くさせるのだろうか。
三つ全てに共通することがある。「正解がない」ということである。
そして、正解の不在は意見の相違へとつながる。
また、それぞれの立場にそれが絶対的に正しいと信じる人も少なくなく、それが正しいのか正しくないのかを検証することも難しい。
それゆえ、議論というよりストレスフルな口論に見えてしまうようだ。

無用の対立を嫌う日本人の国民性と対立を引き起こしやすい政治の性質が相互に反発していることは政治的無関心の一つの要因だろう。

しかし、それは若者だろうと中高年だろうと同じであって、「若者の」政治的無関心を説明するには十分ではない。
少し違った視点から考えてみよう。

負の感情
インターネットには悪意が氾濫している。もう5年以上前だったか、自分のギャグがちょっとバズっただけで「死ね」と送られてきたことがあった。

そんな悪意の場で行われる政治的討論は多くの場合、政敵への攻撃も内包している。貧困層を保護するために金持ちを叩き、社会保障費をカットするために努力しない人を叩く。彼らは口々にこう言うのだ。

「貧乏人を無視する国になると自分も無視されてしまうぞ」
「能なしのために税金払ってると国が潰れるぞ」と。

この言説の真偽はさほど重要ではない。未来ある若者がこの話を聞いてどう思うかが大切である。
危機感を認識して政治に対して働きかけをする人もいるだろう。
しかし、政治に関心のない多くの人が将来に絶望し、無力感を感じ、その言説から距離を置きたいと感じてしまうのではないか。

例えば、スウェーデンの活動家、グレタ・トゥーエンベリは「気候変動対策をすぐにとらないと地球が大変なことになる」と感情的に訴えた。彼女に対する反応には賛否あったが、彼女の言うようにライフスタイルを変えた人はほとんどいない。
みんな、火力発電で得た電気を使い、飛行機で移動しているのだ。グレタについては「イデオロギーに染まった感情的な女の子」というのが一般的な理解ではなかろうか。

現代政治について何か問題を投げかけるとき、必ずと言っていいほど誰かを敵にしてその敵が権力を持つと社会や国が破滅するという物語を描く。
そして、その破滅の物語でもって怒り・絶望といった負の感情を動員して支持を調達するというのが一般的な政治活動の手法になってきている。

ぼくはこの破滅の物語こそが若者を政治から遠ざけているものだと考える。
この物語は既に家族や資産を持っている大人にとって、それを守るための動機になりうるが、それらを十分に持っていない若者はどうだろう。

「失われた○十年」と言われ続けてきたこの時代、学費高騰、教育格差、就職難を嫌でも経験してきた世代に「国が潰れる」だの「戦争に行かされる」だの言われてそれを防ぐための行動を起こす気力が残っているとは思えない。しかも、破滅の物語を信じようものなら昨日まで友人だった人間を敵に回すことだってしなくてはならない。
こうした負の感情の動員は限界を迎えているのだ。

破滅の物語から希望の物語へ
若者が政治的に無関心なのはそのビジョンに破滅が前提で希望がないからというのがぼくの所見でだ。

思えば世界中の人を魅了してやまない宗教は「信じれば救われる」という希望の物語が前提にある。
例えば、聖書に基づくユダヤ教キリスト教イスラム教は「最後の審判」で救われる者・救われない者が決まるという。また、仏教では徳の高い人は人間に生まれ変わることができたり、解脱することができるという。神道も信仰の形は様々あるものの、神様を丁重にもてなせば豊作といった利益がもたらされるという点は同様である。

確かに、神話や宗教にも「破滅の物語」はある。しかしそれはあくまでも人間として守るべきものを守らなかった者についての話だ。宗教はその「破滅の物語」からどう立ち向かうのか、具体的な信仰の方法でもって示してくれる。

政治の話に戻ろう。
現代政治はこの「希望の物語」、つまり問題にどう立ち向かうのかというビジョンに欠けていると感じる。
現政権の問題点を非難する、あるいは野党の問題点を非難することにはエネルギーを注ぐが、課題に対してどう取り組むのかということについてはあまり問題にされない。結局、「こいつにやらせるよりはマシ」という消去法的選択により意思決定がなされる。

「希望の物語」はそう単純ではない。
最低賃金を引き上げ・消費税廃止で景気は回復する」という意見をネットでよく目にするが、いくらでも反論の余地があればこれは大したものにはならない。
最低賃金引き上げても中所得層には影響がない、会社が使える人件費がいきなり増えるわけではないから競争が激化して失業率が増える、税収が減った分どこかから徴収しなければならないが、それが一般国民にならないとは限らない)

民主政を維持する限り、「希望の物語」とは多くの人が納得できるものでないといけないのだ。しかし、高度に専門分化した学問は一般の人間には理解しにくいものとなった今、そのようなものを作ることは困難を極めている。
だから「破滅の物語」が受け入れられやすいのだ。

安直なポピュリズム的政策ビジョンを見せるより急がば回れ
ここは学問の統合、専門教育の一般化という回り道をして教育水準を高めるといった回り道をした方がよさそうだ。

「選挙に行け」とは言うけども
最後に最初の話に戻ろう。
若年層の低投票率は確かに宜しくない傾向である。
しかし、テレビやネットでそれを非難し、ただ「選挙に行け」と呼びかけるのは少し違和感を感じる。

「選挙に行け」「政治に関心を持て」…。
大変ごもっともな意見だが、それは現実に横たわる負の問題を直視せよという命令である。そして、私から見える現代の政治は到底その問題に対して明確なビジョンを持っているとは思えないのである。
この二つが意味するところは救いのない絶望に目を向けろという残酷なメッセージに他ならない。

政治とは救いのない絶望の中でいかに敵のパイを奪って生き残るかのゲームではない。絶望から人々を救うためのものである。

若者に一切の責任がないとは思わないが、政治の本分を見誤り一切のビジョンもない絶望を押しつける側にも責任は感じて欲しいところである。