夢を応援する人、夢を売る人

 昔、初対面のおじさんに夢を話したことがある。ホテルのバイキングで相席だったそのおじさんはぼくの話を聞いてえらく感心した様子であった。どうも、おじさんはぼくの将来の夢を実現できるような業界の大物と知り合いらしい。話はトントン拍子で進んでいき(慣れない酒に酔っていたため)、おじさんはその大物を紹介してやると言い出した。学業も修了していない身で準備も何もしていない。お誘いを丁重にお断りすると、おじさんは「覚悟が足りない、半端者め」などと酔いに任せて冗談っぽく吐き捨ててその場を去っていった。

 そのできごとのあと、ぼくは将来の夢に対して急速に関心を失った。罵られたことに対して相当凹んでいたからだったのもあると思う。ただ、今思えば、あそこで誘いを断ったのは正しい判断だったと思う。
 おじさんは夢を実現させるかどうかという判断をその日のうちにさせようとした。理性的な思考を挟む余地を与えず判断を急かせるのは詐欺師の手口にも用いられる(おじさんは詐欺師ではないと思うが)。おじさんは立ち止まって考える人間を罵った。人生の重要な決断を考えなしに下すのは勇気ではなく蛮勇である。正直、自分にとって彼は夢を応援してくれる人というより、夢を売る人だったのだと思う。

 今の時代、お金と努力する意思さえあればなんだってできる。身体を好みに改造することも、ある大会で一番になることも、月に旅行に行くこともできる。しかし、逆に言えば、コストを払わないと夢が叶わない時代でもある。そして、世の中にはそこにつけこんで夢の実現のためと称して教材なり、サービスなりを買わせようとする商人が少なからず存在するのだ。

 自分の夢を他人に口外する場合、その相手が自分のことをどう思っているのか見極める必要がある。その相手が、本当に自分のことを応援しているのか、客のうちの一人なのかという違いは自分の人生において重大な影響をもたらす。仮に、相手が後者のタイプであるならば、立ち止まって考えるべきだ。立ち止まることを恥とみなしたり、罵ったりする相手ならば切り捨てるのがのが吉である。それでも立ち止まって考えた結果、必要なものであれば買えばいい。

 ところで、夢を売る人がいるということは、夢が商品として売れるということでもある。最後に、「夢の商品化」について述べて終わりにしよう。
 商品化された夢の例に結婚が挙げられる。昔は親が決めた相手と結婚したり、お見合いから結婚したりする方が主流であった。しかし、時代が下るにつれてそのような方法による結婚はほぼ絶滅したと言ってもよい。
 それらに取って代わられたのが、自由恋愛を経て結婚をするという方法である。自由恋愛とは競争である。他者との競争に勝って結婚に至るには多大なるコストを払わないといけないのだ。自分をよく見せる衣装や化粧を購入する費用だけでなく、相手を振り向かせるための交際費、安定した収入を得るための努力という犠牲が必要なのだ。
 同様の事象は受験、仕事、趣味の分野にも見られる。良くも悪くも何らかのコストを払ってある程度の地位にいないと他者からの承認を得にくいというのがジレンマとして存在することは心に留めておくべきであるように思う。