正しいって何やねん

どーも。ひーだです。

世間は国連である女の子がスピーチしたとか、消費税が増税したとかで大変騒がしくなってますね。

その度にネットが荒れるのですが、見ていて辟易するんですよ。

これ、ニュースを出汁に誰かを叩いて自己満足してんなって思うんです。

というのも、ネットに流れる意見の多くは「それ言って何になる?」「それ、一面しか見てないよな?」という疑問が浮かぶようなものばっかりなんです。

古今東西、勧善懲悪はいろんな娯楽に見られますが、それが現実を侵食してきたなーと思います。

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ここからタイトルの話になります。勝手に考えたことなので個人的な意見、感想程度に思ってください。

意見というのは自分が持つ正しさという価値観を基礎にしてます。

この正しさは人によって様々で違う正しさから同じ結論が出たりもします。

例えば、同じ「ズルして報酬を得るのは悪いことだ」という意見でも「努力は正しく評価され、それに見合う対価を与えるべき」から由来したり、「不正をすれば地獄に落ちる」というものからも由来したりします。

もちろん、意見が180度違うということは持ってる正しさも違ってきたりします。

この正しさの多様性、理屈ではわかってるけど、なかなか意識できないものなんですよね。

意識できたとしても、「多様性を認め合う」ことがあまりにもできていない。どれくらいできてないのかと言うと、「多様性を認めろ」と訴える人間が認めないくらいできていない。

多様性が意識できない、認めることができないと自分の正義に縋って世界を想像してしまう。

金持ちは弱者から金を巻き上げて贅の限りを尽くしてるんでしょうか。それとも、弱者ビジネスが自分が努力した結果である資産を奪っていくんでしょうか。

このようにイデオロギーを移動させればどうにだって説明がついてしまうんですよ。自分の正しさの中で思考してたって何の広がりもないし、それこそ自己満足に終わる原因。

 

しかも、正しさは正しければ正しいほど暴力を伴います。

例えば、この国で最も正しいものは法律で、これに違反すれば国から罰金刑、懲役刑という暴力を受けることになります。誰もこのことに意義を唱えないのはみんな法律が正しいと思ってるからです。

先述した例の「法律」と言う文言を「特定の宗教」や「特定の政党」、「特定の価値観」に変えてみてください。ぞっとしますね。

ヘイトスピーチ界隈、反ヘイトスピーチ界隈がなぜああいう混沌にあるのかわかるのではないでしょうか。

 

先ほど「勧善懲悪が現実に侵食してきた」と書きましたが、これは結構危険なことだなと思います。

これまで法律が最も正しいものとされてきましたが、それに並んで誰のものかわからない不透明な道徳観にも正しさが与えられるようになりました。何か言ってそれに触れようものならあらゆる暴力を受ける危険があるということです。

だからこそ、自分の正しさはほどほどに、ね。