個性のない個性も個性だ

SNSとは個性の殴り合いだ。
いかに面白いことを言うか、いかに正しいことを言うか。その競争に勝ったものだけが、バズることができるのである。
世界規模の殴り合いの中で自分の価値について私は懐疑的になってしまう。

一方、私の友人にはSNSを全くやっていないという者がいる。
学校にも必要以上に顔を出さず、アルバイトもやっていない。
それでも彼はのびのび生きている。そんな彼をうらやましく思う。

思うに、彼がのびのびできるのはSNSという闘技場に趣味の時間を費やさず、自分一人の時間を大切にしているからではないだろうか。
社会の多くの人間が「社会的存在から身体的存在が還元される」と錯覚しているが、逆である。自己の存在が社会的存在を形成するのであって、自己の身体的存在こそが普遍的な事実なのであるから、そこから社会的存在を導くのが妥当であろう。
つまり、周囲に評価されて自分がいるのではない。自分がいるから評価される可能性が生じるのである。

以上の推論を踏まえると、SNSにおける自己のコンテンツ力がないからといって落ち込むことはないということだ。
また、世間の潮流は強い「自分らしさ」を要求するが、これが無いからといって、自己の存在価値を否定するものにはならない。
自己の身体的存在こそが自己が自己たらしめる唯一の理由なのであって、そのほかの個性がないとしても「(自己の身体的特徴のある以外は)無個性」という個性が認められるのだ。