多様性保持と寛容であることは別である

ぼくは世間一般から見ると「オタク」だとは思いますが、そんなにアニメ・漫画・ゲームに詳しいわけじゃないんです。
世界史と地理に詳しいだけの東方オタクなんで、twitterで話題の鬼滅の刃とかジョジョとか知らないんですよね。
だからといって文句がある訳でもないですし、それを否定しようとは思いません。
他人の好きな物まで口を挟めるほど偉くもないですし。

数年前から「多様性」や「多様化」という言葉が多用されてくるようになりました。
「若者の趣味が多様化した……」とか「生物多様性」とか「人種の多様化」とかですね。
特にインターネットの発達で世界中のあらゆる情報に接することができるようになり、違った文化、習慣、思想、人種などとも見るようになるというわけです。

私たちはこの多様化にどう対応すれば良いのでしょうか。
もちろん、特定の民族、宗教、思想を迫害して多様性を排除することは許されません。過去の反省もあります。
ならば、多様性と共存する方向で人と関わることは間違いないのですが、ひとつ困ったことがあるんです。

あるものが生理的に受け付けないという人に対して「寛容になって受け入れろ」と言う人がいることです。
私はこれに対して異を唱えたいんです。
先ほど述べたように受け付けないから迫害することは許されませんが、受け入れられないなら可能な範囲で関わらなければいいんじゃないでしょうか。
少なくともこの国の憲法では心で思うだけなら何を思ってもいいとされています。
もちろん、それを表に出すときは他人に配慮しなければなりませんが。
いくら生物多様性が重要だとわかっていても虫が嫌いなもんは嫌いという人はいくらでもいます。
虫を無闇矢鱈に殺しているならまだしも、「嫌い」と言っただけで紛糾されるのはちょっと違うのではないでしょうか。
あまり他人に寛容になることを強要しすぎると悪いことに対しても文句が言えなくなりますし、みんな「正しい思想」の持ち主という気持ち悪い社会になりますよ。

興味がない、生理的に受け付けないなら何も言わず立ち去ればいい。
あなたが他人を傷つけないのなら何を思うおうがあなたの自由です。
逆に、他人がどういう思想を持とうが他人を傷つけないのなら、あなたが口を挟む権利はありません。
もちろん、立ち去れない場面ではお互いを理解する努力が必要ではありますが。

多様性を守るためになんでも寛容でなくてはならない、なんてことはありません。
あなたの「好き」と同じようにあなたの「嫌い」も個性であり、それを侵さないことが多様性を守るということなのです。

f:id:Hiz07b:20211011224901j:plain