選ばれなかった住民のために

空前のどうぶつの森ブームだ。ファンにとっては長年待ち望んだ新作の発売ということもあったが、昨今の外出自粛で日本のみならず海外でもこのゲームの人気が高い。

当のぼくはスイッチを持ってないので流行に完全に取り残された。Twitterのタイムラインに流れるキラキラした雰囲気を傍目にぶつぶつと無関係なことを呟いている。
未プレイではあるものの、毎日タイムラインに流れてくるのでどういうゲームなのか、みんながどういうプレイをしているのかというのはうすうす知っている。

先日、ある海外のプレイヤーがこの「あつまれどうぶつの森」に登場する住人カードの取引価格を元にした住民の格付け表が公開した。この表は日本にも出回った。この表の上位の住民を住まわせるために人気のない住民を追い出すというプレイ(いわゆる「厳選」)をする者も現れた。この行為はたちまち議論の対象となった。
その議論とは「いくらゲームの中の存在といえど気に入らない住民を追い出して好きな住民を誘致するという方法はいかがなものか」というものである。
ぼくもそのような疑問を感じることはあれど、他人のプレイに口を出す権限などない。そもそも未プレイだし。
だからこの件に関しては「どーでもいい」「そういうプレイもあるよね」というのがぼくの結論である。
しかし、住民厳選勢と厳選否定勢がそれぞれどういう思考回路でこのゲームを遊んでいるのだろうかと考えてみたくなった。以下、ぼくの勝手な考えである。

住民を厳選するという人々は理想をゲームに反映させたい人ではないだろうか。既にSNSや動画サイトにはこのゲームを用いて別のゲームを再現したり、現実の景色を再現したりする投稿が多くある。自由度の高いゲームだからこそ努力が如実に表れるために効率を重視したり見栄えを重視したくなるのだと思う。

一方、厳選をしないという人々はこのゲームを現実の延長として捉えているように思える。特にこの外出自粛で思うように遊べない人々はこのゲームの中で虫を捕り、魚を釣り、花見をする。現実の延長だからこそゲーム内のキャラであっても現実の人間のように扱い、どんな住民も追い出さないのではないか。

どちらのプレイも良い悪いなど存在しない。所詮、このゲームの捉え方に過ぎないのだから。


ただ、最近ぼくが感じるのはこのゲームに限らず前者のようなプレーがSNS等で目立つようになり、ゲーム自体の敷居が高くなってはいないかということだ。
上手いプレイはSNSによく映える。リツイートもたくさんもらえるし、動画の再生回数も伸びる。結果的に上手いプレイばかりが見られるようになる。そして、人々はそのプレイが一般的な水準だと思い込み、これに満たさない自分の技術に見切りをつけてしまう。
例を挙げてみよう。昨今の格ゲー界隈は上級者と初心者のレベル差が大きく、初心者がなかなか入りにくいものとなってしまった。また、FPS等ではオンライン対戦とチャット機能の充実により他人の脚を引っ張らないプレイが要求され、相手が悪いとチャットで罵倒され、酷い場合にはネットに晒されるというリスクもある。

この現象はゲームを競技として扱うeSportsやRTAの発展によりますます加速していくものと思われる。ゲームは最早年配の方が思うような「家で一人引きこもって細々とやるもの」ではなく、「ネットを用いて大勢で競うもの」となってしまったのだ。

香川県のメディア規制条例に反対する人たちの多くは「ネット・ゲームをするから不登校になるのではなく、不登校の子どもがそれに頼っている」と訴えた。しかし、高くなるゲームの敷居はそうした子ども達の受け入れをしてくれるのだろうか。ゲームそのものがゲームのできない人々を追い出して上手い人が来るように「厳選」してはいないだろうか。

ただ、この問題が難しいのは有効な解決策がないためである。国がゲームについて規制するなど馬鹿馬鹿しいし、ゲームが上手い人に「自重しろ」と言ってしまえばそれこそゲーム業界の終わりである。だからぼくはこの問題についてああしろこうしろとは強く言えない。

ただ、「厳選」から漏れて選ばれなかった人がいたとしても、彼らに人権は当然あるし、それで人間としての条件を欠く訳でもないと信じている。
「選ばれなかった住民」はどこにでもいて、どこにも見えない人たちだ。そんな人たちにもささやかな笑顔で接すれば、もっといい世の中になるのではないだろうか。