自由競争の浸透とポストオタク文化への変容

まず最初に断っておきたいが、これは趣味で書く論文のアブストラクト的文章である。内容はぼく自身の社会に対する疑問・問題提起だが、長文ツラツラと書いて世の中に物申す的な文章ではない。これらの問題提起に関する調査が済んでいないため、その真偽について鵜呑みにしないでほしい。

元来、漫画・アニメ・ゲームといったオタク文化は個人で楽しむものとされてきた。その証左に、多くの学校では漫画の持ち込みは禁止され、「萌え絵」が公共空間に登場することはごくごく稀なことであった。また、2000年代前後に多発した少年犯罪とこうした文化に関係性があるとの味方もあり、世間の支持は得ているとは言えない状況であった。

2020年現在、世間のオタク文化に対する理解はかなり進んできたように感じる。「ゲーム実況者」なる職業が誕生し、漫画的手法を用いた二次元イラストも公共空間を飾るようになった。さらには、オタク文化に詳しい政治家も登場し、「表現の自由」を守るグループの一派を築いている。

この20年でだいぶ状況が改善したと思われるのかもしれないが、2000年代の「オタク文化」と現代の「オタク文化」には大きな違いが見られることも指摘しなければいけない。

前者の「オタク文化」は前述したとおり、個人単位で楽しむことが前提である。ゲームの通信対戦は機能が限られており、ソロプレイのおまけ要素程度だったし、SNSが未発達だったため、漫画やアニメの感想を共有する場は限られていた。
しかし、後者の「オタク文化」はインターネットによるコミュニティに属し、そのコミュニティ野中で楽しむものとなった。PUPG、荒野行動、フォートナイト、APEXなどのバトルロワイヤルゲームが流行し、SNSを通じて漫画やアニメの感想を言い合ったり、布教することもできるようになった。

ここで一つの仮説にたどり着く。現代に近づくにつれ世間が「オタク文化」に理解を示したのではなく、実際のところ「オタク文化」が世間の理解が得られる形に変容しているのではないか。
ここで、現代のオタク文化を「ポストオタク文化」と呼ぶことにする。

今までのオタク文化というものは、若い凶悪犯罪者と結びつくような、暗く、孤独で、引きこもりのイメージとして語られることがあるほど社会から隔絶されたものだという認識であったのではないか。
一方、ポストオタク文化は先述したような通信対戦、SNSというように、社会的なものを内包している。社会との繋がり抜きでは語ることのできないものでないだろうか。

ここで問題になるのが、社会から取り残された人々の受け皿であったオタク文化がポストオタク文化へ変容することで、人々は否応なく社会との繋がりを強制されることである。
最近では、不安を煽るようなコロナ報道を避けて読書・映画という社会から切り離された領域に非難する人々も多い中、ポストオタク文化に社会から隔絶された領域はあるのだろうか。
某アニメでは監督の意図しない降板をきっかけにSNSで場外乱闘が発生した。オタク文化を敵視するある弁護士は広告にあった女性のイラストにイチャモンを付けたことでネットは炎上。あるゲーム企業が動画クリエイター事務所と著作権包括契約をしたところ、他社のクリエイターの配信が違法になるのではないかと憶測を生み、これも炎上。
こうした炎上案件には枚挙にいとまがない。

また、インターネットの発達は競争のグローバル化をもたらした。
自分の絵をネットに投稿しようものなら、「神絵師」と簡単に比較対象にされる。ゲームはeSportsとして競技化され、世界トップレベルで競争が行われている。アニメのようなコンテンツを消費する側にもこうした競争は顕在化し、推しに貢いだ金額も競争の対象になる。
社会から取り残された人々の受け皿がもはや、勝者と敗者を生産するものとなってしまっている。

ポストオタク文化への変容は自由化とグローバル化という世間の潮流から致し方ない部分もあるのかもしれない。しかし、自由競争による勝者と敗者の生産と「コンテンツの前に平等」というオタク文化の理想モデルの共存はできると信じている。この両者がどのようにして歩み寄るのか、その方法が模索される。