「障害」か「障がい」か、それは問題か?
近年、「障害」という語句を「障がい」や「障碍」と書き換えようという動きが見られる。例えば、
・日本障がい者スポーツ協会
・日本身体障がい者水泳連盟
など、パラスポーツ関連の団体に多い。
しかし、
・日本知的障害者水泳連盟
・日本障害者スキー連盟
のように、同じパラスポーツ団体でも「障害」の語句を使用しているところも存在する。
「障害」の「害」の字がマイナスイメージであることからこれを忌避するために「障がい」や「障碍」を用いるようになり、地方自治体や障害者の団体もこれを利用するようになった。
このような動きに対して障害者の私は疑問的だ。
以下にその理由を何点か分けて記す。
歴史的解釈
戦前、「障害」は仏教語からとった「障碍」と表記されていた。
しかし、戦後になると「碍」は使用頻度が低いことから常用漢字から外され、「障害」と表記されるようになった。
このことから、「障害」表記は常用漢字の範囲内に収めたいという行政側の便宜をとっただけにすぎず、「害悪」のような意図があるわけではない。
文理解釈
「障害」は「障害者」だけでなく、「障害物」や「障害走」という語句にも用いられる。「障害物」や「障害走」における「障害」とはその人にとっての障壁であって、社会全体の障壁ではない。
それなのに「障害者」の「障害」だけ社会全体の障壁と解釈するのは文脈を無視した結論ありきの議論のように思える。
本音と建前
「障がい」や「障碍」表記にこだわる人々に対する最大の違和感は
「障害者本人の『できないこと』に対して無視したり過小評価している」
ことである。
私は脳性麻痺で左腕が思うように動かない。
それゆえ、両手で物を持つことも困難で、自転車にも乗れない。
私の他にも、足がなくて階段が登れぬ人がいる。
目が見えなくて、映画が見れぬ人がいる。
脳の発達が遅くて、成人しても一般企業で働けぬ人がいる。
それは明らかに本人たちにとっての障壁であって、彼らにとっての「害」にほかならない。そして、平等な社会に近づけるために社会全体で障害を持つ人達を支える必要があるのだ。
しかし、「障がい」と書き換えようという人々の考えの裏には、既にこの社会は完全な平等を達成していて、障害当事者たちの困難に目を向けず、呼称の面において障害者たちを健常者と同じ水準にするだけでよいという考えが透けて見えるのだ。
そもそも、「障害」を別の表記に書き換えたところで当事者たちの困難が解決されるわけではない。これを別の表記にすることはむしろ、当事者たちの身体的社会的制約から目を背けさせ、障害者と健常者の権利的な平等を確認する形式的な手段にしかならない。
身体モデルとか社会モデルとか以前の問題である。
ここにリベラルの本音と建前が現れてくる。
要するに、「障害者と健常者が権利的に対等なのは認めるけど、障害者特有の困難には目を向けないよ」ということだ。リベラルな彼らにとっては「平等に近づける」ことより「平等である」ことのほうが重要なのかなとも思ってしまう。
障害者手帳を持っていると、半額で電車に乗れる、障害年金がもらえる、博物館や美術館の割引が受けられるといった恩恵が受けられる。これを「特権」と見るか、「保障」と見るかは当事者たちの困難の知っている度合いで大きく違うのだが、私は少し心配である。
参考文献
・「障害」の表記に関する検討結果について(2010年11月22日)
内閣府障がい者制度改革推進会議「障害」の表記に関する作業チーム
・障害、障碍、障がい その表記の違いはいつから?(2019年3月7日)
WHILL株式会社