H.Iidaの同人誌感想術

現実世界でのイベント開催が厳しい中、同人イベントも軒並み中止となっている。本来ならばGW期間中に開催されるはずだったコミケットも中止になり、代わりに「エアコミケ」と称してインターネット上で創作活動を盛り上げることとなった。

この記事を読んでいる読者は通販などで同人誌を購入したことだろう。好きな作家さん方を応援したいとも思っているだろう。

同人誌を買って経済的に応援もいいが、もう一つ頑張って感想を送ってみるのはどうだろうか。自分が作ったものにレスポンスがつくとなんとも言えない充足感で満たされるのだ。作家さんにメンタル的な応援もしてあげよう。

ここではぼく、H.Iidaが同人誌の感想を書く際に気をつけていることを列挙する。感想の書き方には様々な方法がある。そのため、これがあなたにとって100%参考になるとは断言できないが、感想を書く際の心理的負担が減る一助よなればよいと思う。

0.感想は書かなくてよい

いきなり何を言っているんだと思うかもしれないが、大切なことである。要は無理して書かなくてもよいということだ。
本の感想と言えば読書感想文の課題でアレルギーを持ってしまった人も多いのではないだろうか。義務感に駆られて書いてもあんまりいいものは書けない。書きたいものを書こう。書かなくても怒られはしない。

1.マイナスなことは書かない

同人作家は商業の作家とは異なり、趣味の範囲で活動される方がほとんど。辞めようと思えばいつでも辞められる不安定な肩書きなのだ。
作家のモチベーションが下がるようなことは一つ前の節にもあるように「書かなくてよい」のだ。特にネットの世界では文言一つでさえ違うように受け止められてしまうので気をつけよう。

では、どういうものを避けるべきだろうか。
・誹謗中傷(「絵・文章が下手」など)
・ネタバレ(極力控えよう)
・改善の提案(「ここはこうしたほうがよかった」など)
・他作品と比較(「○○のほうがいい」など)

などが挙げられる。
少しでもマイナスと受け止められそうな表現は送信ボタンを押さずに別の表現を考えることが吉だろう。

2.最初にざっくりと一言でまとめよう

前置きが長くなったが、書く作業に移ろう。まず、本を読んでその本がどういう本だったのかざっくりとまとめてみよう。
「○○が○○する本」と内容をまとめてもよし、
「かわいい」「泣けた」と読んだ際の感情をまとめてもよい。

まとめたのが内容であれば、感想の書き出しになるし、
それが感情ならば、感想の結論になる。

もう一つアドバイスするならば、「解釈違いを恐れない」ことである。
作者の想定と違う感想を持ったとしてもあなたの内面には誰にも干渉できない。また、有名な商業作家でさえも「そんなつもりで書いてない」と突っ込みたくなるような国語の問題を見つけたとしても訴えたりすることはない。

3.褒めるポイントを一つ見つけよう

2までできれば「感想」の体はなしている。ある国の元首相は国技の試合について表彰式で「感動した!」とだけ感想を述べている。それだけでも十分気持ちは伝わるのだ。

それでも「さすがに一言だけは寂しい/失礼かな」と思うのであれば、感想に具体性を持たせよう。どこがどうよかったのか、感動したのかを書いてみよう。
読書感想文にアレルギーのある方にとっては「それが難しいんだよ!!」と思うかもしれない。でも実はそんなに難しくはない。

褒めるポイントを一つ見つけてそこに自分がどう思ったのか付け加えるだけである。例えば、
「最後のシーン(ポイント)は泣けました(感情)」
「このイラストが(ポイント)がかわいかったです(感情)」
「話の構成に工夫があって(ポイント)読みやすかった(感情)」

みたいに褒めるポイントと2で書いた感情をリンクさせれば立派な感想文ができあがる。

4.実際にやってみよう

以上が基本的な感想文の書き方である。
少し実演してみよう。題材は手前味噌で申し訳ないが、ぼくの本「霧雨記」にしよう。ここで用いる感想は主に人からいただいたものを使う。

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本はこちら→霧雨記 - 飯田マート - BOOTH

あらすじをざっくり説明すると、霧雨魔理沙という魔法使いの少女が自身の半生をノートに記録しながら振り返りつつ、そこに残された大きなしこりを明らかにしていく物語である。

では感想を書いていく。
まず2の指示の通り、一言でまとめてみよう。
内容でまとめるとするならば霧雨魔理沙が過去を振り返る本」
感情でまとめるとすれば「大いに納得できた」
とまとめることができた。

次に褒めるポイントを見つけてみよう。
「二つの話が同時並行に進んでいるが紙面に工夫がある」
「まとめ方が丁寧」
の二点が見つかった。

感想を書く材料はこれで揃った。実際に書いてみよう。

H.Iida「霧雨記」
霧雨魔理沙が過去を振り返る本。過去と現在という二つの話が同時並行に進んでいる複雑な構成ではあるものの、紙面に工夫があって読みやすかった。クライマックスのまとめ方も丁寧。タイトル通りにまとめられていて読了後は大いに納得できた。

ほら、それっぽくなったでしょ?
この方法ならTwitter1ツイート分なら簡単に書ける。
皆さんも試してみてはどうだろうか。

それでは、良い同人ライフを。



コロナ疲れの皆さんへ

連日の自粛と自宅待機にありがとう。
あなたの協力は決して無駄にはなっていない。
最初に読者に謝意を伝えた上で本題に入ろう。

長引く自宅待機にストレスを感じている方も多いだろう。見通しの立たない収束に閉塞感を感じている中での有名人の訃報は追い討ちをかけたのではないだろうか。
更に、報道では日に日に増える感染者数、トンチンカンな政府の施策が取り上げられ、コメンテーターもネット民もみんな怒っている。
そんな状況でストレスを受けないわけがないのだ。
そこでひとつ提案がある。

ニュース見るの、やめませんか?

最も重要なのは自分の命。それさえ守られれば十分ではないだろうか。
そして、コロナにかからないためには手洗い・うがい、密集・密閉・密接を避けることしか方法がない。
逆に言えば、それさえ守っていれば自分の命は守ることができるということ。
報道によって他人に怒りを表明したり、怯えたりする必要などあまりないのである。

また、コロナの影響で所得が減った・会社が傾いたという方に対しては納税の猶予や返還の義務のない給付金などの対応がとられている。
「何もしてくれない」と怒る前に調べてみることをおすすめする。

自分と他人の境目

ある哲学者によれば、報道によってあらゆることを知ることができるようになった反面、自分個人と社会(自分以外の他人)との区分が曖昧になったという。
それ故に自分と全く関係のない事柄さえにも感情を発露してしまい、ストレスを感じてしまっているとぼくは思う。

断っておくが、ぼくは「ニュースに文句を言うな」と言っているわけではない。「ニュースによって必要以上にストレスを感じるのであれば、見なくていい」と言いたい。予防法はわかっているのだから。

おまけ

ぼくおすすめのストレス解消法は線香だ。
線香の香りってなんか力が抜けて落ち着く。ぼくは余っている蚊取り線香を炊いているが、仏壇用の線香やアロマキャンドルでもいいかもしれない。

若者の政治的無関心の理由を考えてみた

よく「若年層の投票率が低いのは問題だ」と世間で騒がれる。そして私たち若者は親に、新聞に、テレビに、ネットに「選挙に行け」と言われる。
なぜかと問えば「年寄りだけに有利な政策ばかりなされるからだ」という。

誰もが経験したことのあることだろう。
でもそれで若者の投票率が上がったためしがない。なぜだろう。
これを大人に問うとあんまりいい答えが返ってこない。
この答えがわかってないのに「政治に関心を持て」と言われても困る。
これについて少し考えてみよう。

「野球と宗教と政治の話はしてはいけない」
ある程度歳をとり、お酒が飲めるくらいになると聞く言葉である。
この三つを迂闊にしゃべると険悪な空気になるから酒の席では好ましくないらしい。
ぼくはこれに異を唱えるつもりは無い。この言葉もそうだが、「触らぬ神に祟りなし」といったことわざからもわかるように無用の対立を避けるのは日本人の国民性らしい。

なぜこの三つは場の空気を悪くさせるのだろうか。
三つ全てに共通することがある。「正解がない」ということである。
そして、正解の不在は意見の相違へとつながる。
また、それぞれの立場にそれが絶対的に正しいと信じる人も少なくなく、それが正しいのか正しくないのかを検証することも難しい。
それゆえ、議論というよりストレスフルな口論に見えてしまうようだ。

無用の対立を嫌う日本人の国民性と対立を引き起こしやすい政治の性質が相互に反発していることは政治的無関心の一つの要因だろう。

しかし、それは若者だろうと中高年だろうと同じであって、「若者の」政治的無関心を説明するには十分ではない。
少し違った視点から考えてみよう。

負の感情
インターネットには悪意が氾濫している。もう5年以上前だったか、自分のギャグがちょっとバズっただけで「死ね」と送られてきたことがあった。

そんな悪意の場で行われる政治的討論は多くの場合、政敵への攻撃も内包している。貧困層を保護するために金持ちを叩き、社会保障費をカットするために努力しない人を叩く。彼らは口々にこう言うのだ。

「貧乏人を無視する国になると自分も無視されてしまうぞ」
「能なしのために税金払ってると国が潰れるぞ」と。

この言説の真偽はさほど重要ではない。未来ある若者がこの話を聞いてどう思うかが大切である。
危機感を認識して政治に対して働きかけをする人もいるだろう。
しかし、政治に関心のない多くの人が将来に絶望し、無力感を感じ、その言説から距離を置きたいと感じてしまうのではないか。

例えば、スウェーデンの活動家、グレタ・トゥーエンベリは「気候変動対策をすぐにとらないと地球が大変なことになる」と感情的に訴えた。彼女に対する反応には賛否あったが、彼女の言うようにライフスタイルを変えた人はほとんどいない。
みんな、火力発電で得た電気を使い、飛行機で移動しているのだ。グレタについては「イデオロギーに染まった感情的な女の子」というのが一般的な理解ではなかろうか。

現代政治について何か問題を投げかけるとき、必ずと言っていいほど誰かを敵にしてその敵が権力を持つと社会や国が破滅するという物語を描く。
そして、その破滅の物語でもって怒り・絶望といった負の感情を動員して支持を調達するというのが一般的な政治活動の手法になってきている。

ぼくはこの破滅の物語こそが若者を政治から遠ざけているものだと考える。
この物語は既に家族や資産を持っている大人にとって、それを守るための動機になりうるが、それらを十分に持っていない若者はどうだろう。

「失われた○十年」と言われ続けてきたこの時代、学費高騰、教育格差、就職難を嫌でも経験してきた世代に「国が潰れる」だの「戦争に行かされる」だの言われてそれを防ぐための行動を起こす気力が残っているとは思えない。しかも、破滅の物語を信じようものなら昨日まで友人だった人間を敵に回すことだってしなくてはならない。
こうした負の感情の動員は限界を迎えているのだ。

破滅の物語から希望の物語へ
若者が政治的に無関心なのはそのビジョンに破滅が前提で希望がないからというのがぼくの所見でだ。

思えば世界中の人を魅了してやまない宗教は「信じれば救われる」という希望の物語が前提にある。
例えば、聖書に基づくユダヤ教キリスト教イスラム教は「最後の審判」で救われる者・救われない者が決まるという。また、仏教では徳の高い人は人間に生まれ変わることができたり、解脱することができるという。神道も信仰の形は様々あるものの、神様を丁重にもてなせば豊作といった利益がもたらされるという点は同様である。

確かに、神話や宗教にも「破滅の物語」はある。しかしそれはあくまでも人間として守るべきものを守らなかった者についての話だ。宗教はその「破滅の物語」からどう立ち向かうのか、具体的な信仰の方法でもって示してくれる。

政治の話に戻ろう。
現代政治はこの「希望の物語」、つまり問題にどう立ち向かうのかというビジョンに欠けていると感じる。
現政権の問題点を非難する、あるいは野党の問題点を非難することにはエネルギーを注ぐが、課題に対してどう取り組むのかということについてはあまり問題にされない。結局、「こいつにやらせるよりはマシ」という消去法的選択により意思決定がなされる。

「希望の物語」はそう単純ではない。
最低賃金を引き上げ・消費税廃止で景気は回復する」という意見をネットでよく目にするが、いくらでも反論の余地があればこれは大したものにはならない。
最低賃金引き上げても中所得層には影響がない、会社が使える人件費がいきなり増えるわけではないから競争が激化して失業率が増える、税収が減った分どこかから徴収しなければならないが、それが一般国民にならないとは限らない)

民主政を維持する限り、「希望の物語」とは多くの人が納得できるものでないといけないのだ。しかし、高度に専門分化した学問は一般の人間には理解しにくいものとなった今、そのようなものを作ることは困難を極めている。
だから「破滅の物語」が受け入れられやすいのだ。

安直なポピュリズム的政策ビジョンを見せるより急がば回れ
ここは学問の統合、専門教育の一般化という回り道をして教育水準を高めるといった回り道をした方がよさそうだ。

「選挙に行け」とは言うけども
最後に最初の話に戻ろう。
若年層の低投票率は確かに宜しくない傾向である。
しかし、テレビやネットでそれを非難し、ただ「選挙に行け」と呼びかけるのは少し違和感を感じる。

「選挙に行け」「政治に関心を持て」…。
大変ごもっともな意見だが、それは現実に横たわる負の問題を直視せよという命令である。そして、私から見える現代の政治は到底その問題に対して明確なビジョンを持っているとは思えないのである。
この二つが意味するところは救いのない絶望に目を向けろという残酷なメッセージに他ならない。

政治とは救いのない絶望の中でいかに敵のパイを奪って生き残るかのゲームではない。絶望から人々を救うためのものである。

若者に一切の責任がないとは思わないが、政治の本分を見誤り一切のビジョンもない絶望を押しつける側にも責任は感じて欲しいところである。

 

猫が嫌いだという話

ここ数年で猫好きの数は増加しており、2017年には犬の飼育頭数を猫が上回った(2018,日本ペットフード協会)。SNSには猫の写真で溢れかえり、それを見て癒やされるという人も多いだろう。

しかし、私は猫について何も思わない。何も感じない。
元々生き物には興味がない。
興味がないのならそれで終わる話なのだが、一部の猫好きによって猫に特定の思想が植え付けられる動きも見られており、ぼくはそれを憂いている。
ぼくは猫に罪は無いと思っている。猫に誹謗中傷を浴びせて悦に浸りたい訳でもない。猫という生き物が特定の思想のアイコンになるのが嫌だという話をここでしたい。

猫のイメージ
犬は日本最古のペットだと言われている。縄文時代から人間と暮らしていたとされる。日本神話にも出てくる動物である。
飼い主に忠実で狩りや警備に役に立つイメージがある。

一方の猫は奈良時代にペットとして現れる。
ネズミ狩りに役立つと中国の書物で紹介され、貴族の間で流行した。
現代では自由な性格が気に入られている。

ここに犬猫のイメージの違いが出てくる。
犬は主人に忠実な家臣、猫は自由気ままな放浪者というイメージが後に述べる思想のアイコンとなる背景となったと感じる。

反権力としての猫
近年SNSを中心に動物が反権力のアイコンとされている。
日本共産党と交流のある「肉球新党」、立憲民主党の党大会にも参加した(NHKの記事)非公式ファンクラブ「立憲もふもふ党」などがその代表例だ。

先述した自由で寛容なイメージと多くの人気からこうしたポピュリズム的な動きが出てきたとぼくは考えるのだが、どうも腑に落ちない。
こうしたポピュリズム的政治コミュニティというのは残念ながら話題になった事象を思想でもって斬るというものであり、そこで得られた結論が必ずしも国の統治原理、憲法秩序に適うものであるとは言えない。

こうしたコミュニティのあり方というものは数年前まで人種差別を止めさせるならば暴力行為をも厭わない「しばき隊」、捕鯨を止めさせるならば危険な活動を止めない「シー・シェパード」といったごく一部の人間のものであった。
しかし、最近では、リベラリズム観点から表現の自由を著しく制限しようとするフェミニストの存在、気に入らない論調の新聞に「くず」「出入り禁止」などと書いて掲示した国会議員の存在などが一般にも散見されてきた。

このような行為の擁護に猫が用いられるのは大変残念なことである。

アイコンの弊害
繰り返し訴えるが、猫に罪は無い。
しかしながら、特定思想の顔に担ぎ出されたことで「猫好き=反権力」だという偏見を広めかねない。

実際、ぼくが猫を愛でるアカウントを見ると彼らの正義に適わない者に対して激しく非難を浴びせる毛皮に隠れた「本性」を想起してしまう。
だからどうしても猫を好きになれないのだ。

無題 その1

久しぶりに自分語り記事を。

自分、おっちょこちょいでかなりヘマやらかす人間で、失敗すると被害感情と羞恥心でパニックになって不機嫌になるんですよ。
20過ぎて感情のコントロールはだいぶ上達したとは思うのですが、負の感情を完全に0にすることなど無理なわけで。

つい最近も一年分のケアレスミスの集大成ともいえる失敗をして凹んでます。自分が悪いのですが。

昔、教員に「他人は変わらない」と言われたものですが、自分でわかってても自分を変えるのが難しいものなんですかね。
(変わりたくない理由を探してるだけとクソリプがつきそう)

こういうときは時間に任せるのが最適解だったりします。

「社会に関心を持つのはいいことだ」本当に?

とりあえずの謝罪
アルバイトをしてるとお客様のクレームと付き合うことになる。
多くはこちらの不手際で反省すべきものであるが、やっぱりモンスタークレーマーというのはどこにでもいるものだ。
最も困るのはその場で言えば説明するのに帰って本部なり社長なりに言いつけてくる人。
現場を知らない人間で、立場が上の人間なほどお客様に弱いものはない。
上の者はとりあえず謝罪することが定石なのである。
クレームの内容がスタッフの正しい判断によるものであっても。

「上級国民」それ本当?
「上級国民」なる言葉が昨年から流行している。
流行の背景に元官僚がひき逃げしても「上級国民」だから逮捕されないという一般国民の怒りがある。
しかし、元検察官や弁護士といった現場の人間は、別の理由があって逮捕が遅れたという。
ひき逃げ犯が車の故障を主張したことでその調査で遅れ、50万人が重い罰を科すべきという嘆願書の署名の確認にも時間を要したという。
まさしく国民の常識は現場の非常識であった。

戦前の国民嘆願
実は、同じようなことが戦前にも起きていた。
軍部のクーデター未遂事件である、五・一五事件では政治家や財閥の人間が多数暗殺されたが、国民はこれを支持した。
当時、すさまじい不況で特に東北地方での悲惨な実態が新聞で伝えられており、軍部の一部がその原因は政治家と財閥にあると怒って事件を起こしたものだったからである。
国民は犯人らの減刑嘆願書に署名し、当時としては異例の軽い刑となったのだ。

しかし、これは状況をさらに悪化させるものになってしまった。
というのも、軍部の人間はそれなりの大義名分があればクーデターをしても許されるとみたのだ。
結果、二・ニ六事件を起こされ、軍部の発言力は抑えきれないほど強くなってしまった。

実態はどうであれ、日本は民主国家であるから一般国民には逆らえない。
非常識なクレームに「とりあえず謝罪」をせざるを得なかったのか。

社会に関心を持つのはいいことだ。ただ…、
現代のひき逃げ事件にしろ、戦前のクーデターにしろ、国民の社会に対する関心がうかがえる。
しかしながら、「現場の非常識」に基づくクレームは社会の機能を麻痺させかねない。
社会に声上げる国民に必要なのは理性という教養である。

エリート支配でもなく…
しかし、私は「無知な国民は黙ってエリートに従えばよい」とも思わない。
権力は制限するに越したことはない。
エリートの側にも国民に対して説明責任を果たす責務がある。

デマ・陰謀論を超えて
民主制の前提にあるのは一人一人の理性ある個人の存在だ。
逆に言えば、国民の理性がなければ民主制も崩壊する。
民主主義を維持したいと考えるならば感情論で裏取りもせずにデマを信じるのではなく、「現場の常識」を学ばなければならない。

キハ66引退に寄せて

あらかじめ前置きしておくが、私は「鉄オタ」と言えるほど知識があるわけでもない。キハ66を日常的に利用していた訳でもない。
しかしながら、私にとってキハ66は、私の半生を本にまとめたとすれば、一行くらいには載るであろう存在である。
そんな「彼」が引退するらしいので一言言わせてもらいたい。

キハ66は、1974年から75年にかけて製造された国鉄気動車である。
気動車とは、電気を動力源とする電車とは異なり、燃料を燃やしてエンジンを回すことで走る列車のことである。
採算が取れない田舎の鉄道には重宝するのだ。
元々は新幹線が博多まで延伸するのに伴って、筑豊・北九州地区の新幹線連絡輸送に投入された車輌だ。
当時としては新幹線にしか用いられなかったような技術が用いられた近郊用としては贅沢なものであった。

そんな「彼」が私のふるさと、長崎にやってきたのは2001年だった。
塗装も大胆に一新し、大胆に青を用いた。
運行を担当する大村線快速「シーサイドライナー」に合わせてのことだ。
長崎では年下の後輩であるキハ200とともに、海沿いの路線を走ってきた。

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当時の私はというと、機関車トーマスから鉄道に興味を持ち、旅行で九州鉄道博物館に連れて行ってもらうくらい現実の鉄道が好きになっていた。
しかし、どちらかというと平べったくてスマートな顔立ちをしているキハ200の方が好きだったと記憶している。

当時の私に古くさいと思われていたキハ66だが、2010年以降、カラーバリエーションが豊富になったのである。
以前からある青に加えて、

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昔ながらの国鉄急行色復刻バージョンに、

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ハウステンボスバージョン、

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さらには期間限定でKis-My-Ft2(長崎デスティネーションキャンペーンイメージキャラクター)バージョンまで存在した。

色は新しく変えても国鉄型車輌の面影が残ってるそのギャップに惚れ惚れしたものである。

加えて、大村線という路線の景色の良さも相まって「彼」は何倍にもかっこよく見えたものである。
いつしかうるさい走行音も大村湾の水面の前には心地よくなっている私がいた。
「彼」はもう、よそ者ではなく長崎の顔であった。

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そんな「彼」も引退のときが近づいている。
2020年3月のダイヤ改正で新型車輌投入のために全14編成の廃車が予定されているのだ。
確かにこのご時世で走行音がうるさい、バリアフリーなんか考慮されてもない、改造に魔改造を施したオンボロ車輌が淘汰されるのは当然であろう。

しかしながら、私は忘れない。
朝霧に包まれた街を走る「彼」を。
瞼を重くする学生たちを運んだ「彼」を。
その境目もわからないほど青々とした空と海のそばを走る「彼」を。
地元サッカーチームのサポーターの興奮を運んだ「彼」を。
現川のトンネルを闇雲に走った「彼」を。

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そのどっしりとして飾らない国鉄型の風格は後世に語り継がれるだろう。